ニュートラルな気づき 


by honnowa
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08/03/27の記事のつづきです。
連続記事なのに間隔があいてしまい、ごめんなさい。
わたしにとってはよく知っていることを書いているのでなく、知らなかったことをお勉強しがてら書いているので、体力が落ちている今、書きたいことが頭の中ではおおよそまとまっていても、それを書き上げる集中力がなくて・・・

それと元ネタの、『大曲家の世界1 バロックの巨匠 バッハ/ヴィヴァルディ/ヘンデル』 (音楽之友社)ですが、ちょっと解説が難解なのです。
本の半分は図版で、楽しく面白い本なのですが、もともと外国の本を翻訳したもので、解説は各章で執筆者が異なります。
特にヴィヴァルディの章ですが、外国の方特有の、──で括って、やたらとコメントや引用を挿入する手法の文章で、おそらく直訳されているので(翻訳者も苦労したと思います)、読み辛いことこの上なし。
わたし自身も知識がないので(ヴィヴァルディがオペラの作曲家だったなんて初めて知りました)、この一冊で記事にすることは諦めて、助っ人本を2冊調達してきました。

  『作曲家別名曲解説ライブラリー21 ヴィヴァルディ』 (音楽之友社編)

  『イタリア・オペラ史』 (水谷彰良 音楽之友社)

『大曲家の世界』で取り上げられている、ヴィヴァルディ自身の人生や生活の様子は、『作曲家別名曲解説ライブラリー』に網羅されておりました。
ヴィヴァルディがどういう人物か知りたい場合は、『作曲家別名曲解説ライブラリー』にあたることをお薦めします。
日本人執筆陣による日本語の解説なので、ふつうに読めます。
ただ念のために申し添えておきますと、『作曲家別名曲解説ライブラリー』の「主要参考文献」リストに『大曲家の世界』が載っています。
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by honnowa | 2008-03-31 06:18 |
タイトル    桜の樹の下には
          (新潮文庫 『檸檬』所収)
著 者     梶井基次郎
発行所     新潮社
発行日     昭和42年12月10日発行
         昭和60年6月10日37刷改版
         平成6年5月10日52刷
Cコード    C0193 (一般 文庫 日本文学、小説・物語)
内 容     主人公が盛りの桜の樹に視る幻想
動 機     忙しい時にお花見に誘われて、ふとこの話を思い出したから     
私の分類   娯楽

お仕事がとても忙しいです。
生活を趣味優先にシフトしたくて、以前の忙しい職場を辞めて転職したというのに、何と言うことだ。
帰りも遅く、朝も少し早く家を出ているので、体が休まらず風邪が長引いてます。
そして仕事でも家でも「総会」を控えている状況。
そんな中でノーテンキに職場のお花見の連絡が回ってきました。
その頃、もしかしたら倒れて死んでるかも・・・
でももし倒れて死んだら、周り中から、「倒れるなら総会終わってからにしろー」って言われるんだろうなあ。
お花見の連絡の返信に「そのお花見している桜の樹の下の屍体はわたしです」と、書いてやろうかしらんと思ったのですが止めときました。

昨日はやっと土曜日、お休みです。
朝寝をしてゆっくりして、少し元気が出てきました。
窓から見える桜を眺め、甘いカフェオレを飲みながら、久々に梶井基次郎を再読です。
壊れかけた頭にもってこいでした。
それにしてもいい文章だ。


『桜の樹の下には』は、青空文庫で公開されています。

  『青空文庫』様より 『桜の樹の下には』
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by honnowa | 2008-03-30 07:30 |

『時々一古今』 4

    二条のきさきの春のはじめの御うた

  雪のうちに春はきにけり 鶯のこほれる涙いまやとくらん

          佐伯梅友校注 『古今和歌集』 (岩波文庫)


仕事、忙しいです。
でもきっと、この時期、日本中の勤め人はみんな忙しいはず。
桜のお花でも見て、優雅な気分になりましょ。

 
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by honnowa | 2008-03-29 09:46 |

『時々一古今』 3

    題しらず    よみ人しらず

  春霞たてるやいづこ み吉野の吉野の山に雪はふりつゝ

          佐伯梅友校注 『古今和歌集』 (岩波文庫)


家の周りの桜が咲き始めました。
桜の名所、吉野山はどうなんでしょう。

  『吉野山桜情報 Ver.2008』

朝から一勉強、吉野山は奈良県にありました。
てっきり京都だと思ってました。
何事も調べてみるものだ。

  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より 『吉野山』
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by honnowa | 2008-03-28 06:26 |
08/03/26の記事のつづきです。

バッハ様は、その生涯に何度か転職と引越しをしましたが、それでもドイツの一部地域内のことで、外国に行くということはありませんでした。
教会は市民の生活に密接に結びつき、娯楽の音楽としてはカフェ・ツィンマーマンで行われるコレギウム・ムジクム(大学生による演奏会)でした。
市民の堅実な生活ぶりが窺えます。
バッハ様関係の資料本に、市民の生活、当時の教会や為政者の様子などが記されても、音楽のこと以外の政治的国際情勢などが記されているのを読んだ記憶は、わたしにはありません。

ところがヴィヴァルディの章は、その真逆の世界でした。
国際観光都市ヴェネツィアへ多くの貴人が訪れ、ヴィヴァルディと交流があったのは、先日の記事でお伝えしたとおりです。 (08/03/25の記事参照)
さらに驚いたのは戦争の記述でした。
ヴェネツィア共和国、この時代に戦争していたんです。
相手はなんとオスマン帝国。
あれ? わたしの乏しい世界史の知識ではヴェネツィアとオスマン帝国が戦ったレパントの海戦はもっと大昔では?
1715年に布告されたこの戦争は、オーストリアも加わって、1718年のパッサロヴィッツ条約まで続きますが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で、『ヴェネツィア共和国』『オスマン帝国』の歴史などをみますと、ずっと小競り合いが続いていたようです。

そして上記の戦争が、ヴィヴァルディの作曲したオラトリオの中で、現存する唯一の曲、『ユーディタ』(RV644) (副題は《野蛮なホロフェルネスを打ち負かした勝利のユディタ──この戦時に、ピエタ教会の音楽をする娘たちの集団によって歌われる神聖な戦争オラトリオ 1716年》)が作曲された直接のきっかけとなります。

ヴィヴァルディと戦争、結びつかなーい。
でも現実はこうなんですね。

さてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の『オスマン帝国』で、「2.3 帝国支配の混乱と衰退」の章にこんな記述がありましたので触れておきます。

  1700年にはロシアとスウェーデンの間で起こった大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデ
  ン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、ピョートル1世の治下で国力の増
  大著しいロシア帝国との苦しい戦いを強いられた。


結局、いまだヴィヴァルディとスウェーデンの関係は見つけられないのですが、バッハ様の兄ヨハン・ヤーコプはスウェーデンのカール12世と関係がありました。 (08/03/06の記事参照)
ヨハン・ヤーコプが最後にトルコに行ったのと何か関係があるのでしょうか。
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by honnowa | 2008-03-27 06:29 |
昨日08/03/25の記事のつづきです。

あれほどの華麗な経歴を持つヴィヴァルディも、当時の他の作曲家同様(バッハ様然り、テレマン然り)歴史の中に忘れられます。
音楽のあり方が根本的に変わり、音楽のニーズも変わり、楽器がどんどん改造され、音楽家の立場も変わってゆきました。
ヴィヴァルディが研究されるようになったのは、まだ最近、しかもバッハ様が編曲したヴィヴァルディの曲から研究が始まったそうです。(08/03/15の記事参照)

本によりますと、わたしが先日聴き比べをした『調和の霊感』の第11番が、バッハ様の長男のヴィルヘルム・フリーデマンの作品と思われていたそうです。
なんでも編曲したバッハ様の自筆譜に、フリーデマンが意味のあいまいなメモを書き込んていたことが原因だそうで。
う~む、ルイ15世お気に入りの『四季』まで埋もれていたのでしょうか。
『四季』と比べれば、疑いようもなく同一作者の曲と断言できると思うのですけど。

そんな状況ですからヴィヴァルディの小伝を読んでも、どういう人物だったのか、どういう生活をしていたのかはあまり描かれていません。
司祭ということは独身だったでしょうし、子沢山のバッハ様のような、地に足のついた「生活」という部分はなかったかもしれません。
そのうえ司祭なのにミサを行わなかったそうですから、音楽漬けの人生だったのかもしれません。
それゆえある意味博打でもあったオペラの興行に精力を傾けることもできたのでしょう。

本を読んでいて一番驚いたのは、彼が、そして次の章ではヘンデルが、オペラの興行に力を注ぎ、そこで一番成功したがっていたということなんです。
『四季』のあまりに強いイメージに、器楽曲の作曲家という印象が拭えないのですが、認識を改める必要があります。
ヴィヴァルディの成功のスタートは器楽曲の出版からでしたが、オペラに本格的に参入してからは協奏曲は出版せず、たんに資金の足しに協奏曲の手書き譜を売っていたそうです。
そしてヴィヴァルディにしてもヘンデルにしても、彼らの音楽活動は、当時のその国のオペラの発展や受容とも密接に関わっていました。
明日からはもう少し、その当時の状況に触れてゆきたいと思います。
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by honnowa | 2008-03-26 06:58 |
08/03/06の記事のつづきです。

『大作曲家の世界1 バロックの巨匠 バッハ/ヴィヴァルディ/ヘンデル』 (音楽之友社)の、ヴィヴァルディの章を読み終えました。

前回の記事で、「イタリアの作曲家ヴィヴァルディと、スウェーデンの首都ストックホルムが、どうにも結びつかないのです」と書きましたが、スウェーデンではないものの、ヨーロッパのさまざまな国の貴人と関係があり、まさに国際的スター音楽家と呼ぶにふさわしい活躍ぶりでした。
彼がそうなった一因には、当時のヴェネツィア共和国がヨーロッパ貴人憧れの国際的観光地だったこともあります。

きょうは、本の中から、どの国のどういう貴人たちと関係があったのかの抜書きです。
音楽関係者は除きます
まず年代を確認しましょう。
ヴィヴァルディは、1678年3月4日ヴェネツィアで生まれ、1741年7月28日ウィーンで亡くなっています。

  ・ 1713年版の《外国人のための観光案内書》には、彼は父親のジョヴァンニ・バッティスタとともに、ヴァイオリンの優れたヴィルトゥオーゾと記されている。 (P77)

  ・ この高貴な旅行者(デンマークとノルウェーの国王、フレデリック4世=私注)は1708年12月29日にヴェネツィアに着き、翌日の「朝の11時には」もうピエタ(ヴィヴァルディが当時勤めていた慈善院=私注)にやってきて「娘たち[……]が、ガスパリーニの代わりに指導するマエストロが弾く楽器に合わせて」歌うのを聴いている。 (P87~88)

  ・ 1709年3月6日、華やかなヴェネツィアの謝肉祭の終わりに、再び寒い領地へ旅立つフレデリック4世のトランクの中にあって──「欧州大旅行(グランド・ツアー)」の途中に、ヴェネティアに上陸する多くの裕福な外国人旅行者がカバンの中に入れるのと同じように(当時の貴族は誰もが音楽を楽しむ、あるいはそれに無知ではないことを示すために、首を長くしてイタリアの新作を待っている家族や友人たちに、出版された楽譜や手書き譜を持ち帰るのだった)──ヴェヴァルディのソナタは北部ヨーロッパを、ロンドンとアムステルダムの裕福な出版市場を開拓し始める。 (P88) (この時の楽譜は作品2=私注)

  ・ それから2年足らず(上記のできごとから=私注)で、ヴィヴァルディの作品に門戸が開けた。アムステルダムのロジェ社が(中略)自社で出版するための、12の協奏曲の作曲を依頼してきた。ついに発行部数の多い仕事がきた。しかも印刷技術は手が込んでいて、イタリアの印刷所で1500年代まで使われていた、断片的な版を組み合わせる昔ながらの方式ではなく、それは近代的な方式に近い。 (同上) (この楽譜が作品3『調和の霊感』=私注)

  ・ ヴェネツィアへの旅行熱は昔からあった。1600-1700年代には、有名な音楽家や彼らの演奏に接することが観光者にとって魅力のひとつだった。年代記作者たちだけでなく、音楽家や政治家たちもヴィヴァルディにひかれてこの旅行に参加した。(中略)重要な政治家では、バイエルン選帝侯、カール・アルベルトである。彼はベネツィアでヴィヴァルディのオペラに魅せられ、《ウティカのカトーネ》の初演には、わざわざヴェローナまで出向いた。ヴュンチェスラフ・モルツィン伯爵には、ヴィヴァルディは作品8を捧げたし、ザクセン選帝侯、フリードリヒ・クリスティアンが彼をきくために訪れたことは、ドレスデンで出版された《種々の楽器のための協奏曲》の扉の献辞によってわかる。楽譜が出版されたのは1741年で、この君主がピエタ慈善院の演奏会を聞いた数ヵ月後のことである。 (P124) (この作品8の中にあの『四季』があります=私注)

  ・ この旅行(ヴィヴァルディがプラハへ行った=私注)では、ヨハン・ヨーゼフ・フォン・ヴェルトビー伯爵が2曲のトリオと、リュート協奏曲を注文する。この伯爵もプラハのスポルク劇場と国立博物館の聴衆のひとりであって、彼が書き込みを残したヴィヴァルディのオペラの台本──《ファルナーチェ》には「大いなる賞賛」、《アルジッポ》には「じつに偉大」と書かれている──は現在でも保存されている。(P128~129)

  ・ ハプスブルク家のカール6世は、1727年に作品9の協奏曲集(《ラ・チェトラ》)の献呈を受けていて、その翌年の9月にはトリエステの町と自由港(中略)を視察する旅行の途中で、非常に親しげにヴィヴァルディに会っている。 (P129)

  ・ ヴィヴァルディはこの1730年の旅行によって、皇帝や宮廷との関係を強めることができただろうか? おそらくできたのだろう。それは5年後にヴェローナで上演される《アデライデ》の台本に、「ロレーヌ公爵閣下の宮廷楽長」という肩書きが現れることでわかる。ロレーヌ公爵とは、(皇帝カール6世の=私注)長女マリア・テレージアと結婚して皇帝の娘婿になった人物である。 (P130)

  ・ 「ヴィヴァルディ氏によって作曲された、じつに優秀な楽士たちによって演奏された」1曲のセレナータ、(中略)。これらは、フランスの国王ルイ15世(15歳!)とマリア・レツィンスカ妃の結婚式を祝うために、フランス大使であるジェルジ伯、ジャック・ヴァンサン・ランゲによって1725年9月12日に催された豪奢なパーティを彩るものなのである。 (P130)

  ・ 2年後、この高貴な結婚(上記=私注)から双子の女児が生まれ、大使は自分に任されている外交機関の義務に従って、《テ・デウム》ともう1曲のセレナータを演奏させる。この楽譜はどちらも失われたが、我々には1冊の台本と《メルキュール・ド・フランス》紙の記事が残されていて、(中略)「有名なヴィヴァルディの」作品である2時間にわたる器楽協奏曲のことが記されている。 (P130)

  ・ ヴィヴァルディは1726年にも《セーヌ川に祝う》を作曲する。これは国王──若いルイ王──の慈悲と知恵に捧げるもうひとつのおおげさな讃歌で、この曲の中ではフランスの音楽様式の数々を取り入れるなど、注文主を喜ばせようとする配慮が(省略)、ことになされている。さらに、君主がこの熱意によく応えたことも言っておく必要があるだろう。やはり《メルキュール・ド・フランス》が伝えるには、1730年11月25日、王はヴェルサイユの宮廷貴族たちに、彼らが自分たちですぐに《春》の演奏をするように命令したという。 (P130~131)

  ・ スペイン大使であるカンポフロリド公、ルイス・レーヒョ・ブランシフォルテと熱心な、いや熱烈な関係をもつことがわかる。一方、帝国の君主たちやヴェネツィアにいる彼らの外交官たちとは、1720年代から非常に良い関係が続いている。 (P131)

  ・ 1737年に、彼はアムステルダムからショウブルク劇場の100年祭でオーケストラの指揮をするように招かれる。 (P134)

  ・ 1739年から40年にかけて、ドイツの2人の君主バイエルンの選帝侯の弟のフェルディナントとザクセンの王子で、王子継承者のフェルディナンド・クリスティアンがヴィヴァルディを聴くためにピエタを訪れ、この2人の君主から彼は名誉と金品を与えられる。 (P136)

たくさんの引用で、ごめんなさい。
でもどうです、この売れっ子ぶり。
これにバッハ様が彼の曲を編曲したとか、若きクヴァンツが楽譜を買い集め、その印象を後年回想録に書き残す、というようなエピソードまでつくのです。
彼は最後にウィーンに行きますが、そこで皇帝カール6世が突然亡くなったり、ウィーンに侵略軍が進軍してくるなどの社会情勢に見舞われたようです。
そういうアクシデントがなければ、彼は死ぬ前にウィーンでもう一花咲かせることができたかもしれませんし、生前の活躍に相応しい葬儀と埋葬もしてもらえたのかもしれません。
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by honnowa | 2008-03-25 06:36 |

まもなく春本番

c0100148_1744673.jpg
23日の午前は、ヴィヴァルディの資料本を借りに図書館へ。

風邪がまだ治らないので用心して厚着して外に出ましたら、ジャケットもカーディガンも要らない暖かさでした。

桜は開花寸前で、蕾の先から赤い花びらが見え始め、欅も桜に負けじと葉芽を膨らませ、何かお花でも咲くんじゃないかと思わせるほどです。

図書館までは川沿いの緑地帯を歩きます。
雲雀が草叢でたくさん囀っていました。
相手探しか巣作りか、ともかく忙しそうです。
そうですよね。
c0100148_17361681.jpg植物ならば、気候が合えば一斉に活動を始めますが、合わなければ無理に活動しなくても構わない。
根や、種のまま、ちいさな花のままその年はやり過ごしてもよい。
でも虫や鳥たちはそんなわけにはいかないから、時期が来ればともかく盛んに行動しなければならない。
しばし囀りに耳を傾けました。

緑増す原野の中で啼く鳥は短き生命(いのち)の時を逃さず

時として永い生命(いのち)を持て余す人の溜息歌にはならず

一羽が高く舞い上がり始めました。
よく聴くとまだ声が冴えきっていません。
なんとなく、風邪気味?というかウォーミングアップ中というか。
そうかあ、雲雀たちはまず歌の練習をしてたんですね。
春本番までもう少し練習がいるみたいです。
ガンバレ~

こちらで雲雀の動画が観られます。

  『YAH00!きっず図鑑』より 『せきつい動物亜門 鳥類(鳥綱) スズメ目 ヒバリ科 ヒバリ』 
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by honnowa | 2008-03-24 06:23 | 自然

『時々一古今』 2

    春たちける日よめる    紀貫之

  袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん

          佐伯梅友校注 『古今和歌集』 (岩波文庫)

08/02/07の記事参照
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by honnowa | 2008-03-23 06:58 |

『時々一古今』 1

    ふるとしに春たちける日よめる    在原元方

  年の内に春はきにけり ひととせをこぞとやいはん ことしとやいはん

          佐伯梅友校注 『古今和歌集』 (岩波文庫)
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by honnowa | 2008-03-22 06:46 |