「動く」ということ
2008年 07月 03日
といっても紙面1枚分の、ある意味広告ですが。
6月20日の中日新聞に掲載された養老孟司氏のインタビューです。
『うごく!岐阜〈生〉キャンペーン』という岐阜県への車の旅を誘うプロジェクトキャンペーンにちなんだ、「動く」ことと脳の活性化という内容でした。
動くことで五感を刺激し、そのことが脳の活性化につながる。
現代の都会の生活は、決まった条件で生きることであり、動きを固定するものである。
人間は生きて動くものであり、そのためにも旅をして動きなさい、という主旨のお話しでした。
キャンペーンで言う「うごく」や氏の説く「動く」とは少しずれますが、動きと脳の活性化については、自分でも自覚することがあります。
わたしは電車の中が、一番アイディアが閃きます。
仕事のやりくりや段取り、行き詰ってなかなか進展しなかったことなど、ずっとそのことを考えていたわけでなく、車中では何も考えずに結構呆としているのにも関わらずです。
あるいはだいぶ前のことで、すでに忘れていたことの、次の展開が思いついたり。
突然、パッと閃きます。
電車の小刻みな震動が、わたしの脳には適度なよい刺激を与えているようです。
インタビュー記事には興味深い内容がありました。
昨今よく取りざたされる、地べたに座り込む若者のことです。
氏によると、それは「次の動きがない状態」なのだそうです。
地べた座りは、次の動きへの準備として(と言っても実際には無意識で行っているのですけど)、呆と力の入っていない状態で立っているのとは、ずいぶん次元の違う振舞いのようです。
呆然と立っているだけでも、潜在意識下では、生物として、次への動きのための準備をしている。
一方で、もしかしたら本人は意識して格好つけのために、地面に座っていることが、生物として次の動きへ準備することを放棄しているのかもしれない。
そういうことが頻繁になるうちに、準備をしないことが自分の身に定着してしまうかもかもしれない。
固定することが身に付いてしまうと、思考から、血流から、心身のすべての動きが動かない方向に向かって行ってしまうような気がしてなりません。
これはよくよく考えてみると、生物として、人間として、ずいぶん怖いことではないでしょうか。