ヘンデルの場合 2
2008年 04月 12日
ヘンデルの時代、オペラといえばイタリア語の台本によるイタリア・オペラでした。
『ファブリ・カラー版 大作曲家の世界1 バロックの巨匠 バッハ/ヴィヴァルディ/ヘンデル』のヘンデルの章でも、わざわざ「イタリア・オペラ」と記述されています。
当時のオペラですが、『イタリア・オペラ史』 (水谷彰良 音楽之友社)によりますと、(P10)
イタリア・オペラには、イタリア語の台本に作曲されたすべての歌劇が含まれる。作曲家
の国籍や初演地は問題ではない。ヘンデルがロンドンで初演した歌劇も、モーツァルトが
プラハやヴィーンで初演した歌劇も、イタリア語の台本に作曲された作品はすべてイタリ
ア・オペラなのである。17・18世紀のヨーロッパにおいて、イタリア人の台本詩人、イタリ
ア人の歌手、イタリア人の装置家なしにオペラの上演は考えられなかった。イタリア語を歌
うに値する唯一の言語と認めたのも、イタリア語を母国語としない民族の君主たちであっ
た。こうした「オペラがイタリア・オペラと同義」といえる状況は、フランスなど一部を除くす
べての先進国において、19世紀初頭まで継続した現象であった。民族意識の高まりで自
国語の作品が奨励されてなお、非イタリア語圏の人々は自国語歌劇をイタリア・オペラより
も下位な芸術と見なしたのである。
ドイツ出身のヘンデルがイギリスで作曲したオペラは、イタリア語によるイタリア・オペラということになります。
そして興行の成功のために、さまざまな手を打ちます。
評判の高いイタリア人歌手をスカウトしに行ったり、当時の二大プリマ・ドンナと契約を交わし、同じ舞台に立たせます。
バレリーナ、マリ・サレを有するフランスのバレエ団と手を結び、イタリア・オペラにバレエを登場させます。
ところがこれがなかなか成功しないのです。
それでもめげずにオペラの上演に精力を傾け続けたヘンデルも、最終的にはオペラから撤退せざるを得なくなったのは、先の記事のとおりです。
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『ヴィヴァルディの時代 5』 (08/04/02の記事参照)
『ヴィヴァルディの時代 4』 (08/04/01の記事参照)