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ニュートラルな気づき 


by honnowa
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ヘンデルの場合 2

08/04/06の記事のつづきです。

ヘンデルの時代、オペラといえばイタリア語の台本によるイタリア・オペラでした。
『ファブリ・カラー版 大作曲家の世界1 バロックの巨匠 バッハ/ヴィヴァルディ/ヘンデル』のヘンデルの章でも、わざわざ「イタリア・オペラ」と記述されています。
当時のオペラですが、『イタリア・オペラ史』 (水谷彰良 音楽之友社)によりますと、(P10)
 
  イタリア・オペラには、イタリア語の台本に作曲されたすべての歌劇が含まれる。作曲家
  の国籍や初演地は問題ではない。ヘンデルがロンドンで初演した歌劇も、モーツァルトが
  プラハやヴィーンで初演した歌劇も、イタリア語の台本に作曲された作品はすべてイタリ
  ア・オペラなのである。17・18世紀のヨーロッパにおいて、イタリア人の台本詩人、イタリ
  ア人の歌手、イタリア人の装置家なしにオペラの上演は考えられなかった。イタリア語を歌
  うに値する唯一の言語と認めたのも、イタリア語を母国語としない民族の君主たちであっ
  た。こうした「オペラがイタリア・オペラと同義」といえる状況は、フランスなど一部を除くす
  べての先進国において、19世紀初頭まで継続した現象であった。民族意識の高まりで自
  国語の作品が奨励されてなお、非イタリア語圏の人々は自国語歌劇をイタリア・オペラより
  も下位な芸術と見なしたのである。

ドイツ出身のヘンデルがイギリスで作曲したオペラは、イタリア語によるイタリア・オペラということになります。
そして興行の成功のために、さまざまな手を打ちます。
評判の高いイタリア人歌手をスカウトしに行ったり、当時の二大プリマ・ドンナと契約を交わし、同じ舞台に立たせます。
バレリーナ、マリ・サレを有するフランスのバレエ団と手を結び、イタリア・オペラにバレエを登場させます。
ところがこれがなかなか成功しないのです。
それでもめげずにオペラの上演に精力を傾け続けたヘンデルも、最終的にはオペラから撤退せざるを得なくなったのは、先の記事のとおりです。


《関連記事》

  『ヴィヴァルディの時代 5』 (08/04/02の記事参照)

  『ヴィヴァルディの時代 4』 (08/04/01の記事参照)
 
by honnowa | 2008-04-12 08:52 |