三十六歌仙について 3 撰者 藤原公任
2009年 05月 18日
『kotobank 』より 「藤原公任」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
藤原 公任(ふじわら の きんとう、康保3年(966年) - 長久2年1月1日(1041年2月4日))
は、平安時代中期の公卿・歌人。正二位権大納言。
政治的には、当時藤原北家の嫡流は皇室の外戚の座を失った小野宮流から九条流に移って
いたことから、官位は正二位権大納言に止まったが、九条流の藤原道長の意を進んで迎え、
優れた学才により一条天皇の治世を支え、藤原斉信、源俊賢、藤原行成とともに『一条朝の四
納言』と称された。
家集『大納言公任集』、私撰集『金玉和歌集』、歌論書『新撰髄脳』『和歌九品』などがあり、
『和漢朗詠集』や三十六歌仙の元となった『三十六人撰』は彼の撰による。また引退後著したと
見られる有職故実書『北山抄』は摂関政治期における朝廷の儀式・年中行事の詳細が分かる
貴重な史料である。
次の源氏物語のエピソードは有名ですね。(前掲より)
『源氏物語』の話題
寛弘5年(1008年)11月1日、土御門殿で催された敦成親王の誕生祝いの宴で、公任が紫式
部に対して「この辺りに若紫は居られませんか」と声をかけた、という。式部は(光源氏似の人
も居ないのに、どうして紫の上が居るものかしら)と思い、その言を聞き流した、と『紫式部日
記』に見える。なお、この逸話の条が、本文以外で『源氏物語』に触れられた記録の初見とされ
る。