ニュートラルな気づき 


by honnowa
カレンダー

<   2007年 02月 ( 28 )   > この月の画像一覧

タイトル    人類の知的遺産4  孔子
著 者     金谷治
発行所    講談社
発行日    昭和55年8月10日第1刷
         昭和59年5月20日第2刷 
種 類     思想
内 容     孔子の思想、人物像、『論語』、孔子観の変遷
動 機     井上靖の小説『孔子』の理解の参考に
私の分類   勉強
感 想     『論語』は仏典のような思想の展開でもなければ、聖書のようにキリストの生涯
  や時代背景のストーリーでもなく、短文の羅列に過ぎません。
  その短文もアフォリズムでなく、孔子や弟子の言動の書きとめなのです。
  著者は学問的な立場から孔子の人物像に迫ろうと試みます。
  しかしわたしのような凡庸な人間には、そこから孔子のイメージを汲み取ることは困難で
  した。
  立派な人物であることや生涯はわかったのですが、読めば読むほど、この人は本当に実
  在の人物だったのだろうか、2500年前でなくもっと後年の人ではないだろうか、一人でな
  く複数の人物のイメージが繋ぎ合さっているのではないか、もっと単純な人物でないと弟
  子もついていきにくかったのではないか等々、疑問が膨らむばかりでした。
  解説を読んですらそうなので、ましてや『論語』そのものから一人の人物のイメージを作り
  上げるなどは、わたしの想像力を超えた作業です。
  特に一番初めに『論語』からイメージを作った人は素晴らしい。
  たとえ後年の思想家や政治家が自分の意見の正当化のために孔子を利用したイメージ
  像だったとしてもです。
  それが歪んだものであったとしても、わたしから見れば一種の能力であり、その才能に素
  直に敬意を表します。
  一つイメージができれば、そこから批判したり発展させたりすることは遥かに簡単だから
  です。
  わたし自身は残念ながら、そういう作られたイメージの派生でしか人物を思い描くことので
  きない想像力の乏しい人間なのだと、今回の読書で身に沁みた次第です。


※ 07/1/2907/1/3007/1/3107/2/107/2/26に関連の記事があります。

  
[PR]
by honnowa | 2007-02-28 07:17 |

井上靖 『孔子』読了

タイトル    孔子
著 者     井上靖
発行所     新潮社
発行日     平成元年9月10日発行
         平成2年2月20日20刷
Cコード    C0093 (一般 単行本 日本文学、小説・物語)
内 容     孔子の死後に家僕として仕えていた男が語る、孔子の人物像や、記録として
         残された詞の背景や真意
動 機     著者が語る『孔子』への思いをテレビ番組で観て感銘を受けたので
          (07/1/1407/1/18の記事参照)     
私の分類   勉強
感 想     07/1/2407/1/2607/1/2907/2/107/2/26の記事参照

※ 関連の記事 07/1/14、07/1/18、07/1/22、07/1/23、07/1/28、
07/1/30、07/1/31、07/2/3、07/2/4、07/2/6、07/2/7、07/2/8、
07/2/9、07/2/12、07/2/13、07/2/16、07/2/17、07/2/18、07/2/19、
07/2/22、07/2/23、07/2/24、07/2/25

        
[PR]
by honnowa | 2007-02-27 06:55 |
「『論語』の詞より」が昨日の記事で完了しました。
井上靖の小説『孔子』には、他にも詞が使われていましたが、今回は参考にした『人類の知的遺産4 孔子』 (金谷治著)で確認できた詞のみ取り上げました。

わたしとしてはこの後、井上靖が登場人物たちの意見として披露したさまざまな「天命とは何か?」の抽出と、『人類の知的遺産4』の子貢にまつわる詞の抽出をするつもりだったのですが、1/18の読み始めからだいぶ経つので、明日、読書目録の記事をアップし、一区切り付けようと思います。

さて、参考に読んだのは『人類の知的遺産4 孔子』のたった一冊なので、この本との比較に限りますが、井上靖の描いた孔子と学者の説明との最大の違いは、孔子、五十六歳から十四年にわたる放浪生活の理由です。
学説では孔子自身が仕官の口を求めるためとしているようですが、井上靖は同行していた門弟、子路、顔回、子貢を有力な王に仕官させようと機会を伺っていたとしています。
井上靖が何故そのような創作をしたのか?
小説のことだし、その方が人物が面白くなる、などという理由は井上靖の、特にこの作品ではあり得ないと思います。
『論語』を何度も読み、取材し、思考した結果、孔子の本心はそうだったに違いないと確信する部分があったからだと思います。
そこも探ってみたいのですが、それこそ長い年月の勉強が必要になりそう。
のんびりやりま~す。
[PR]
by honnowa | 2007-02-26 08:10 |

『論語』の詞より 16

07/2/24の記事の続きです。

──いま、天下中が大きな河に押し流されている。どこから流れてくるのか、どこへ流れてゆくのか知らない。誰も、この流れに抵抗することもできなければ、この流れを変えることもできない。これから何十年も、何百年も、同じ状態が続くだろう。次々に人間も、国も、大きな河に流され、消えてゆく。そして留まるところを知らない。国と国との争いがなくなり、大きな河の流れが静かになるには、まだまだ、長い年月がかかるだろう。
──お前さんも、国の権力者を択(よ)り好みして、あっちに行ったり、こっちに来たりしている、こせこせした人間にくっついていても始まらん。世間を捨てている人間と一緒になって、畑仕事でもしている方が、まだましだよ。
こう言って、その男は河畔の田圃で、何の種子か判りませんが、兎に角、畑に種子をまいては、土に振り掛けていました。
  滔滔(トウトウ)たる者、天下皆是なり。而(シカ)して誰と以(トモ)にか之を易(カ)へん。
  且(カ)つ而(ナンヂ)其の人を辟(サ)くるの士に従はんよりは、豈(ア)に世を辟くるの士に
  従ふに若(シ)かんや。耰(ユウ)して[や]まず。
※ [や]はわたしのパソコンで表記できない漢字。
※ 状況説明しますと、子路が渡し場の場所を、傍で畑仕事をしていた二人の男に尋ねた際
  に言われた詞です。
  『人類の知的遺産4』では二人の男は道家的な隠者とされています。
  「人を辟くるの士」とは孔子を指します。
  この後に、子路から報告を受けた孔子の「鳥獣は~」の詞が続きます。 (07/2/6の記事
  の2番目の詞です)
※ 学問的には後年の作り話のようですが、孔子の考え方がよく出ている詞で、井上靖は実
  際の出来事として小説で扱っています。
  「道の将に~」 (07/2/24の記事の2番目の詞)や、「逝くものは~」 (07/2/8の記事
  の2番目の詞)の天命の思想とも合ってます。
  それを踏まえた上で、上記のような「鳥獣は~」や「死生、命あり、~」 (07/2/24の記事
  の1番目)の一個人の最大限の努力や力の発揮が大切というのが孔子の考えなのです。
  わたしの好きな言葉に「人事を尽くして天命を待つ」というのがあります。
  これまで、この言葉を使うときには、天命=良い結果を前提としていました。
  でも天命というものはそんな人間の都合に合わせたものではないのだと、井上靖の『孔
  子』は語るのです。
  自分にとり都合の良い結果が出ようが、出まいが、ともかく「人事を尽く」せ、ということか。
  う~ん、現実は確かにそうかも知れないけれどわたしには飴が欲しいです。
[PR]
by honnowa | 2007-02-25 07:14 |

『論語』の詞 15

07/2/23の記事の続きです。

  死生、命あり、富貴、天に在り。
死生も、富貴も、結局のところは天命であり、人力の如何とも為し難い問題であります。と言って、生きるように努力しなければなりませんし、事の大成に向っても、これまた努力しなければならない。その上に於ての天であり、命であります。

  道の将(まさ)に行われんとするや、命なり。道の将に廃(すた)れんとするや、命なり。
確かに社会に正しい道が行われるのも、天命というものでありましょうし、反対に道が廃って、世の中が乱れるのも、これまた天命というものであって、それに対しては、人間の持っている力など、なんの役にも立たないかも知れません。
※ 井上靖は上の“死生”を個々の人間の問題を取り扱った詞とし、“道”の方は人間という
  もの、全体に対して仰言った詞としています。
  そして「こうした情勢の下に於て、人間は小さい力を出し、己が正しいと信じていることに
  対って、進ませて貰うだけであります」

  文王既に没す。文ここに在らずや。天の将に斯(こ)の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後
  死(こうし)の者、斯の文に与かることを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡
  人(キョウヒト)、それ予(われ)を如何せん。
文王は既に在(いま)さぬ。文化を伝え、ひろめる者は、ここに居る、この私ではないか。天がこの文化を亡ぼそうとするなら、その文化が、この私のところに伝わる筈はない。天がこの文化を亡ぼそうとしないならば、匡人如きが、文化の後継者であるこの私に何が出来ようか。
※ 豊かではない家庭に育った孔子は、いつ頃から自分は偉大な文化の後継者であるとの
  思いを抱くようになったのでしょう。
  十五の時でしょうか、三十、四十、五十歳でしょうか。
  自分がこの世に生まれてきた使命を自覚できる人とできない人の差はどこからくるので
  しょう。
  わたし自身は使命と言えるほどのものは何もわかっていません。
  ただ歳を取るにつれ、若いころのように、どうして生まれてきたのだろうと考えることはしな
  くなりました。
  生まれたかったから生まれてきた、というのが現時点でのわたしの悟りです。
  いまはただ、時間のある限り、本を読み、音楽や美術を楽しんでいたいし、生きている間
  はずっとそうしたいと願っています。
  へへへ、社会貢献という部分が抜けてますね。
  
[PR]
by honnowa | 2007-02-24 06:43 |

『論語』の詞より 14

07/2/22の記事の続きです。
14回目です、ふう。
えらいことを始めちゃった。
まだ続きます。
ようやく一冊の3/4まで進みました。
あと1/4です。
ここまで引用すると著作権が・・・
でもブログの記事を繋げても小説にはならないから大丈夫(かな?)。
逆に基の小説がちゃんと小説になっているのが不思議というか、感心しきりです。

  子、九夷(い)に居らんと欲す。在るひと曰く、陋なる、これを如何(いかん)せん。子曰く、
  君子、これに居らば、なんの陋なること、これあらん。
孔子は海上は遠い、未開民族・夷の住んでいる小さい島に行って、そこに住みたいと、実際に考えていた。それを知った知人が、そんな所は汚くて、住めないだろうと言うと、孔子は仰言った。自分たちが行って、実際に、そこに住めば、汚くはなくなり、結構、気持ちよく、楽しく住めるだろう。
※ この詞だけを取り上げると、現代人が海外に住みたいなあと言うのと、同じような感覚と
  錯覚してしまいそうですね。
  『人類の文化遺産4』では「道の行なわれない現実的な嘆きを、飛躍した空想に転換して
  いる」ものか?としています。
  わたしの捉え方としては、乱世の世であっても、地上のどんな地であっても、よくしようとい
  う気持ちで生活すれば住めば都で案外住みよくなるものだ、ということをユーモアと旅情を
  交えて披露したのではないかなと思います。
[PR]
by honnowa | 2007-02-23 07:58 |

『論語』の詞より 13

07/2/19の記事の続きです。

  樊遅(ハンチ) 知を問う。子曰く、民の義を務め、鬼神は敬して之(こ)れを遠ざく。知と謂
  うべし。仁を問う。曰く、仁者は難きを先きにして獲(う)るを後にす。仁と謂うべし。
樊遅が、知者といわれる人は、民を治めるのに、どういう方法を採るだろうかと訊いた。それに答えて、子は仰言った。人民が正義とするところを尊重し、鬼神とか、なべて信仰問題は、敬して、遠ざける。深入りしない。これが知者の天下を治める態度である。次に仁者の場合は、どうか、と、樊遅が訊くと、子は仰言った。仁者は最も困難な問題に、真先きに取り組んで行くが、それに対する報酬というか、そこから生まれる利益というものは考えない。
※ 藤原正彦先生もベストセラー『国家の品格』で大事なのは「武士道精神」と、力説しておら
  れました。
  あのナチスのヒトラー政権も民主主義の正しいルールから生み出された政権です。
  孔子は既に2500年前に説いていたのですね。

  子、斉(セイ)に在りて韶(しょう)を聞く。三月、肉の味を知らず。曰く、図らざりき、楽(が
  く)を為すことの斯(ここ)に至らんとは。
子は斉の国に行った時、韶の音楽を聞いた。長い間、肉の味に気づかなかった。そして、言った。──思いもよらなかった。音楽というものが、人をこのように夢中にされるものである、とは。
※ 孔子は大変に感動し、“美を尽くせり、また善を尽くせり”と激賞したそうです。

  子曰く、道行われず。[筏](いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由(ゆう)
  なるか。子路、これを聞きて喜ぶ。子曰く、由や、勇を好むこと、我に過ぎたり。材を取る所
  無からん。
子は仰言った。道も行われぬ、嫌な世になった。[筏]に乗って、海にでも出て行こうか。こうした自分について来てくれるのは、子路ひとりかな。──これを聞いて、子路は喜び勇んで、いつでも[筏]に乗る覚悟をして、子の前に罷り出た。すると、子は、子路に、お前さんが勇敢なことは、私以上だが、併し、一体、[筏]を編む材木はどうしようかね。
※ [筏]はわたしのパソコンで表示できない漢字のため、代わりに当てた字。
※ ユーモラスな詞ですね。
  それに子路とも、気心の知れた仲だったことが伝わってきますね。
 
 
[PR]
by honnowa | 2007-02-22 07:25 |
本年1月に新発見した木棺の記者発表をしました
  『吉村作治 考古学者のひとりごと』より  

考古学者の吉村作治先生が、今年の1月に(ミイラの入った)木棺を発見されましたが、その瞬間が3/11(土)放送の『日立 世界ふしぎ発見!』で放送されるそうです。
たまたま番組の取材チームがロケに来ていたとのこと。
なんという幸運。
また3/11の放送というのは、同番組にとって第1001回目の放送になるようで、なんだかものすごいめぐり合わせという感じ。
『日立 世界ふしぎ発見!』のホームページには、まだこの放送の予告は出ていませんので、上記の吉村先生のブログ『吉村作治 考古学者のひとりごと』をご覧ください。

発見の瞬間ってどんな様子なのでしょうね。
想像するだけでわくわくします。
学術調査の現場なので、きっと地味なんだろうなあ。
でも木棺なのでさすがに、おお、と現場がどよめいたのかしら。
楽しみですねえ。

さて今回、初めて吉村先生のブログをおじゃましました。
吉村先生といえば、最近はサイバー大学のことでも話題です。
わたしはこの大学に関心があったので、ブログで考古学だけでなく大学についても触れておられて、なおさら興味深かったです。
どうしてサイバー大学に関心があるかというと、世界遺産学部があるのですよ。
吉村先生はその大学の学長であり、学部長なのです。
この4月に開校されますが、この日本初の試みがぜひ成功しますように。
[PR]
by honnowa | 2007-02-21 09:03 | 文化と歴史
発掘なんて大げさなのですが、そういう気分なのです。
英語がわからないし、うまい検索の方法もわからなくて、お目当ての曲が見つかるまで一つひとつ調べているものですから。
絞込み検索とかできないのかな。
どなたかわたくしにお知恵を~~。

さて結局お目当ての曲は見つからなかったのですが、思わぬものを見つけお宝発掘気分なのです。

見つけたのは、リコーダー・カルテットのAmsterdam Loeki Stardust Qtartetが『Fugue Around The Clock』で発表したバッハ様のBWV596 (原典はヴィヴァルディの
Op.3/11)からAllegro の演奏です。

http://youtube.com/watch?v=4Lb-YWW8rGo

次はメンバーの一人が世界で一番大きなリコーダーを紹介しているもの。

http://www.youtube.com/watch?v=h-9m7Lwtyas

二件ともどういう映像なのでしょう。
何かドキュメンタリー番組の録画でしょうか。

さて次は、先日やっとレッスンが終了したRV443、ピッコロ協奏曲として2楽章が有名な曲です。
難しかったあ。
特に第1楽章はまるで曲になりませんでした。
さて動画の方ですが、奏者はソプラニーノというソプラノよりもう一回り小さな高音域のリコーダーを演奏しています。
隣のギターみたいなのはリュートという楽器です。
ソプラニーノを演奏しているのは Giovanni Antonini という指揮者としても活躍するイタリアのリコーダー奏者です。

http://youtube.com/watch?v=0XiHU8To1d0

今回リンクでなく動画を直接載せようとしたのですが、セキュリティにブロックされてしまいました。
載せている方はどうしているのでしょう?
[PR]
by honnowa | 2007-02-20 07:20 | 音楽

『論語』の詞より 12

07/2/18の記事の続きです。

  子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。
お世辞と、つくり笑顔の者には、まあ、仁の徳といったものはないだろうね。

  子曰く、ただ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪(にく)む。
いつでも、相手の立場に立って、ものを考えてやり、思いやりを自分の生命としている“仁”の人には、好むべき人と、悪むべき人は、自らはっきりしている筈であります。

  子曰く、剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し。
このような性格、このような人柄の人たちが、“巧言令色”とは反対の人たちであることには間違いありませんん。
そうした人たちは、そのまま、“仁の人”であるとは言えないにしても、但し、“仁”に近いところで坐っている人たちであると言うことはできる。
※ 「剛毅木訥」について、井上靖は主人公に「一字ずつ区切って、剛、毅、木(樸)、訥の四
  語として読むべきであるか、或いは剛毅、朴訥の二語として読むべきであるか」と語らせ
  ています。
  『人類の知的遺産4』では、「古注に『剛は無欲、毅は果敢(カカン)、木は質樸、訥は遅鈍
  (チドン)』とある。まっ直ぐの正直さ、毅然とした強さ、飾り気のない純樸さ、寡黙なのろま
  さ」としています。

  子曰く、仁遠からんや、我れ仁を欲すれば、斯に仁至る。
“仁”は遠いところにある理想ではない。自分が“仁”を行おうと思えば、“仁”はすぐそこにある。すぐそこ、近いところにある。

  子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何せん。人にして仁ならずんば、楽(がく)を如何
  せん。
人間、“仁”の心を持たないとあっては、“礼”など学んでも、どうなるものでもない。無駄なことである。“楽”の場合も、同じこと。“仁”の心なしに、“楽”など学んでも、意味をなさない。なんの足しにもならない。
※ 「楽」とは儀礼にともなう雅楽。礼と並んで人間の容儀・品性をととのえる。


※ 井上靖の小説『孔子』のなかで「天命」の次に多くページを割かれているのが「仁」につい
  てです。
  でも「仁」とは何ぞやと考えてもイメージを捉えにくいですよね。
  07/1/23の記事で紹介しましたが、「仁」という漢字の成り立ちを知るととてもわかりやす
  いです。
  漢字はとてもストレートでしかも想像力豊かな表現ですね。
[PR]
by honnowa | 2007-02-19 06:42 |