ニュートラルな気づき 


by honnowa
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カテゴリ:文化と歴史( 44 )

07/10/15の記事のつづきです。

先日、古典の講義を受けたときの先生のお話です。

「贈答歌を解釈する場合、本心を表現していると思ってはいけませんよ」
なぬ?
「贈答歌にはルールがあって、反撥した歌を返すものなのです」
「それから当時の人にとっては、相手をよく知らなくても、とりあえず歌くらいなら、という感覚で遣り取りをしますからね」

それでは、どうやって相手の本心がわかるんでしょうね。

鈴木日出男著 『源氏物語への道』(小学館)によると、「男と女の贈答歌では、まずは男の方から、自分がこれほど思っているという懸想(けそう)の歌を詠みかけ、それを引き受ける女の方が、何らかの反発的な要素を加えながら応答する。という方式で成り立っている。」そうです。

女は切り返しができるので、男よりも優位に立つことができます。
「しかしながら、女の方が贈答歌の方式で上位に位置づけられているからとて、単に自らの優越さを主張して済むというものでもあるまい。和歌の表現として、そこにおのずと自らの内省が加わるからである。」

なんてきついこと言ってしまったのかしら、わたしって嫌な女・・・
な~んて反省するんでしょうかね。
さっきはきつこと言ってごめんねえ、と慌てて文を送ったりするんでしょうか。
男はきついことを言われても、ルールだからと平気なのかしらん。
いったい擬似恋愛から本物の恋愛にどうやって移行するんだ?

それはね、男女のことだから。
いえいえ、この段階では当時は顔を見ることも、下手すると声を聞くこともできなかったので、相手の様子から察する、ということはできません。
とすると、乳母なりお付の者なり仲介者がいないと話が進展しないことになります。
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by honnowa | 2007-10-17 05:51 | 文化と歴史

日本で一番古い会社

雑談から、老舗和菓子屋の話になり、たぶん虎屋が一番古かろうということになったのですが、「虎屋なんてまだまだ」と日本で一番古い会社を教えてもらいました。
でも虎屋だってすごいのですよ。
創業は1500年代後半、室町時代にまで資料で確認できるそうですし、絵師 尾形光琳が虎屋に注文したお菓子の記録まで残っています。

  ㈱虎屋様のサイト
    http://www.toraya-group.co.jp/

さてその虎屋をさらに上回る古い会社、「金剛組」は和菓子屋ではありません。
社寺建築の会社なのですが、いろいろ調べると、日本一どころか、どうも世界で一番古い会社ということで海外のメディアにも紹介され、あのギネスブックにも載っているらしいのです。

  ㈱金剛組様のサイト
    http://www.kongogumi.co.jp/index.html

すみません、リンクは張っていません。
TOPページのタイトル部のキャッチコピーがすごいです。
「飛鳥時代 第30代敏達天皇6年 西暦578年 創業」
「沿革」も「会社概要」も通常の企業さんとは記載されていることが一味も二味も違います。

法隆寺や四天王寺をお建てになったのですね。
施工主様は推古天皇や聖徳太子様でいらっしゃる・・・
はぁ。

また「匠の精神、職人技」というページには江戸時代に名字帯刀を許されたエピソードまで。
現役企業さんのサイトなのにほとんど物見遊山で申しわけありません。
でも会社の内容が歴史そのもので興味が尽きません。

このような古い歴史を誇る会社のサイトを見てみると、特徴として「○○の歴史」というページを設けています。
自ら歴史と公言できるようになるのには、何十年、いや何百年かかるのでしょうか。

引き合いとしてはちょっとずれてますが、例えばトヨタ自動車。
サイトを見ると「トヨタの歩み History of Toyota」となっています。
さすがにまだ「歴史」とは名乗れないようですね。
1867年、「豊田佐吉 誕生」から始まっています。
えっ? ここからカウントするんですか?
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by honnowa | 2007-08-21 06:52 | 文化と歴史

黄檗山万福寺とは

昨日の記事のつづきです。

なぜ万福寺のことを調べる気になったかといいますと、以前若冲の鶴の掛け軸の記事に、夏目漱石の『草枕』を引用しました(07/05/11の記事参照)が、この引用部分の直前の段落が万福寺に関係のある文章だったのです。
以下に引用します。  (『青空文庫』より)

   仰向(あおむけ)に寝ながら、偶然目を開(あ)けて見ると欄間(らんま)に、朱塗(しゅぬ)
  りの縁(ふち)をとった額(がく)がかかっている。文字(もじ)は寝ながらも竹影(ちくえい)
  払階(かいをはらって)塵不動(ちりうごかず)と明らかに読まれる。大徹(だいてつ)という
  落款(らっかん)もたしかに見える。余は書においては皆無鑒識(かいむかんしき)のない
  男だが、平生から、黄檗(おうばく)の高泉和尚(こうせんおしょう)の筆致(ひっち)を愛し
  ている。隠元(いんげん)も即非(そくひ)も木庵(もくあん)もそれぞれに面白味はあるが、
  高泉(こうせん)の字が一番蒼勁(そうけい)でしかも雅馴(がじゅん)である。今この七字を
  見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。しかし現(げん)
  に大徹とあるからには別人だろう。ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかも知れぬ。
  それにしては紙の色が非常に新しい。どうしても昨今のものとしか受け取れない。

うわ~、難しい。
少しづつ解読してまいりましょう。
以下の語注は、集英社文庫の『夢十夜・草枕』の「語注」から借用です。(P230)

・ 竹影払階塵不動・・・中国、明代末の儒者洪自誠の『菜根譚(さいこんたん)』中の句。
・ 黄檗・・・禅宗臨済派の一分派黄檗宗。明の隠元が万治二年(1659年)宇治の黄檗山万
       福寺で伝えた。
・ 高泉和尚・・・黄檗派の僧(1633~1693)。寛文元年(1661年)に来朝し、宇治万福寺
          を中興した。
・ 隠元・・・江戸前期の黄檗派の帰化僧(1592~1673)。黄檗三筆の一人。
・ 即非・・・明の僧(1616~1671)。隠元の招きで来朝。小倉市の福聚寺を開いた。のち
       長崎の崇福寺の住持となる。
・ 木庵・・・黄檗派の禅僧(1611~1684)。隠元に従って来朝、黄檗山第二世を継いだ。
・ 蒼勁・・・字が古体で勢いの強いこと。

硬い文章はこれくらいにして、現在の万福寺の様子です。
なにやら「『明朝体』の源流」とか「日本最初の図書館事業をおこした」とか、どうやらすごいお寺のようです。
  『京都・宇治 黄檗宗大本山萬福寺』  
  
公式サイトでは萬福寺のようですので、引用でない部分はこちらの字を使うことにします。
つぎに萬福寺境内の画像と動画もあるサイトです。

  京都観光タクシー/堤タクシー様の『ぶらりと京都』の
    『京都庭園の四季』より 『萬福寺』


こちらは萬福寺と、若冲ゆかりの相国寺の両方がわかるサイトです。

  『臨済禅 黄檗禅 公式サイト』より 『各派のご本山』
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by honnowa | 2007-06-13 05:13 | 文化と歴史
07/5/12の記事の続きです。
やっと本題の大聖堂の話になります。
参照先ブログ  『HEROのアナログな生活』より 『サン・パオロ教会』
 
 サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ聖堂
    彰国社 『建築大辞典 第2版 <普及版>』より 
[伊]San Paolo fuori le Mura
ローマの南の城壁外にある初期キリスト教時代のバシリカ式聖堂。
324年ごろ使徒パウロの墓上に最初の聖堂が創建された。
386年、皇帝ウァレンティニアヌス2世の命により大規模な建物に改造。
1823年の火災後に再建された。
堂の内部(奥行120m、幅60m、高さ23m)は、80本の花崗岩円柱で五廊に区画され、鍍金スタッコ装飾の付いた格天井で覆われる。
横断アーチには5世紀のモザイクが残り、中央正面にアルノルフォ ディ カンビオ作の大天蓋(1285)が置かれる。
旧ベネディクト会修道院の美しい回廊(12~13世紀)が付属する。

・ バシリカ式聖堂・・・上記参照先の4枚目の写真。
・ 使徒パウロ・・・同上 2枚目の写真の白い像。
・ 堂の内部・・・同上 4枚目の写真
・ 鍍金スタッコ装飾の付いた格天井・・・同上 5枚目の写真。スタッコとは漆喰のこと。
・ 格天井・・・「ごうてんじょう」と読みます。
・ 横断アーチの5世紀のモザイク、中央正面のアルノルフォ ディ カンビオ作の大天蓋につ
  いては調べてはっきりわかったら記事に追記します。 

『Googleマップ』でこの大聖堂の航空写真や地図がわかります。
「N41 51 31.6 E12 28 34.6」と入れて、「地図検索」してください。

この大聖堂についてはこちらのサイトをご覧ください。
詳しくて、写真が豊富です。
昨日もお伝えしたとおり、公の方ではなかなか詳細なサイトがないのでありがたいです。
わたしが見たかったモザイクがたくさん載ってました。
  『とんでもとらべる』様の『ローマ旅行記』より 『旧アッピア街道 その6』

  同上 『写真集リンク』より
 『ローマ写真集120 サン・パウロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂1 白い列柱廊』

 『ローマ写真集121 サン・パウロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂2 ファサードのモザイク』

 『ローマ写真集122 サン・パウロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂3 神の羊と使徒』

 『ローマ写真集123 サン・パウロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂4 聖人たち』
             
上記辞典からの引用に、「旧ベネディクト会修道院の美しい回廊」とありますが、その写真が載っているサイトです。
  『BUON VIAGGIO』様の『CIAO ROMA』より 
      『Basilica di San Paolo di Fuori Le Mura』
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by honnowa | 2007-05-13 06:54 | 文化と歴史
今日はサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂のことを調べます。
べつにわたしが行ってきたとか、またはこれから行く予定というわけではありません。
こちらのブログを見ていたら、どうしても調べたくなってしまって。
とくに2枚目写真のファザードのモザイク画がもっとよく視たいのです。

  『HEROのアナログな生活』より 『サン・パオロ教会』

最近、読むのが日課になっているお気に入りのブログです。
もしよろしければ、トレビの泉にコインを投げるつもりで「ポチ」してあげてくださいませ。
もしかしたら世界遺産 サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂に行けるようになるかもしれません。(信じるものは救われる、ですよ)
ところでその記事を綴ったご本人は知らなかったんですよ、世界遺産だったことに。
あらららら、もったいな~い。
なので「勝手にタイアップ企画」で、おせっかいにもわたしが調べることに名乗りをあげたわけなのです。

さて正式な登録名は『 ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂』。
英語では『Historic Centre of Rome, the Properties of the Holy See in
that City Enjoying Extraterritorial Rights and San Paolo Fuori le Mura』。
なんなんでしょう、この長たらしい名称は。
順番に説明します。
ローマ歴史地区・・・アウレリアヌス帝が271年に築いた城壁の内側にあたる地域とほぼ一
  致する。
  主な建造物は、フォロ・ロマーノ、コロッセオ、パンテオン、コンスタンティヌスの凱旋門等。
教皇領・・・上記の城壁の北西の突き出た部分がヴァティカン市国ですが、ヴァティカンは単
  独に世界遺産に登録されているので、ヴァティカン市国の外にあり、かつ城壁の内側にあ
  る教皇庁直轄領のこと。
  主な建造物は、サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂
  等。
サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂・・・教皇庁直轄領なのですが、この聖堂のみ城壁の
  外側に建っている。

きょうのところはここまでにします。
名称の説明だけで終わっちゃったあ。
サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂単独の登録でないので、ネットでなかなかよい資料が集めにくいです。
個人の方の趣味のサイト以外では、どうしても一緒に登録されているコロッセオ等の説明や画像が主なのです。
世界遺産の番組を放送しているNHKTBSの番組サイトを調べても、アーカイブにこの大聖堂はありませんでした。

英語、フランス語のわかる方はユネスコの公式サイトをご覧ください。
  『UNESCO World Heritage Centre』

NHKとユネスコの共同事業である「世界遺産デジタル映像ア-カイブス」がユネスコのホ-ムペ-ジ上に掲載されています。
こちらには残念ながら大聖堂の画像がないのですが、コロッセオの動画がありましたよ。

なお、名称ですが資料により日本語訳がまちまちなので、『 ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂』は社団法人日本ユネスコ協会連盟の『世界遺産リスト』に従いました。
その他は手持ちの資料に合わせ、テキトーです。
続きはまた後日ということで。
なんとかモザイク画の詳細まで辿りつきたいです。
  
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by honnowa | 2007-05-12 07:42 | 文化と歴史
日本の女優第一号、川上貞奴が電力王、福沢桃介とともに暮した邸宅が、「文化のみち二葉館」として名古屋市内に保存されています。
先日、春の陽気に誘われて、ウォーキングがてら見学に行ってきました。

竣工大正9年ごろのオレンジ色の瓦屋根が印象的な建物は、内装に至るまで大正ロマンに溢れていました。
c0100148_7103953.jpg寄木細工の床やステンドグラスなど凝った装飾も素敵ですが、高い天井と、なにより窓が大きく、室内がどの部屋も明るい。
もともとは高台にあり、名古屋城や御嶽山まで見渡せたそうで、サンルームのような部屋もありますから、毎日どんな景色を眺めて二人は暮していたことでしょう。
これが日本家屋ですと、どんなに素晴らしい建築で感銘を受けても、現実に住みたいとは思いませんし、住居としての大変さを想像してしまうのですが、二葉館は居住性も良さそうで、貞奴の美的センスと合理性を伺うことができます。
建物の外観や室内の様子はリンクを張りましたので、二葉館のサイトでぜひお楽しみください。
こちらのサイトではさらに詳しくわかる写真と動画があります。

さて二葉館の二階はもともとプライベートスペースでしたが、現在では名古屋市ゆかりの作家たちの資料が展示されています。
経済小説で知られ、つい先日お亡くなりになられた城山三郎氏の書斎も再現されています。
が、これがなかなか・・・
書斎というよりも仕事場です、というよりも、整理整頓の苦手な学生さんの机の上といった様子ですが・・・
いえいえ、創作の現場とはえてしてこんなものです。
地震の際、大丈夫だったのかしらとか、この本棚あと何年もつのかしらとか、余計な心配をしたくなります。
城山氏が経済小説のパイオニアだったことは、この度初めて知りました。
いまや主要ジャンルですよね。
お亡くなりになられたことはニュースで知っていましたが、著作を読んだこともなく、名前だけ知っている有名作家とう遠い存在の方だったのが、今回、郷土の作家ということで、仕事場を垣間見て、せっかくなのだからこの作家のことをもっと知っておこうか、という気が起こりました。
いずれ著作も読みたいと思います。
謹んで城山氏のご冥福をお祈り申し上げます。

  産経新聞『SankeiWeb』より
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by honnowa | 2007-04-16 06:20 | 文化と歴史
Excite エキサイト : 社会ニュース

正直、素直に驚きました。
だって日本人は世界の人口の1/65しかないし、インターネットの普及率もお隣の韓国に及ばないようなニュースをみたこともありますし。
それに日本語で綴るのはほぼ日本人だと思うのですよ。
それに対し英語の場合は、世界中の人に読んでもらいたくて、あえて母国語でない言葉で綴っている人も多いでしょう。
それを考えると世界中のブログ記事の全言語の37%を日本語が占めるのは驚異的なことです。

わたしの周辺ではブログをする人はホームページを持っている人よりも少ないのです。
話を伺うと、興味はあっても、毎日綴るのがプレッシャーだと感じているようです。
みなさん、ブログ=日記という認識で、だから毎日つけないと、考えすぎてしまうのですね。
実際には毎日つける必要はないんですけど。
ただ日記と違い人に読んでもらえ、未知の人からコメントを頂けるというオマケが付いてますから、ハマルと結構がんばって毎日書くようになりますね。
日記がまるで続いた試しがなかったのが嘘のようです、わたしの場合。

さて記事の話に戻りますが、この日本人の意外なブログ好きはどこから来るのでしょう。
パソコンそのものへの関心の高さとは別の要素ではないでしょうか。
国民的に日記や随筆が好きなのだと思います。
もともと各国で日記をつける習慣がどれほどなのかも併せて知りたいですね。
きっと日本人の習慣が高いような気がします。
なにしろ、平安時代の『土佐日記』、『枕草子』以来、1千年の歴史がありますから。
そしてもう一つの大事な要素。
それは写真好きであること。
これは世界的にも有名な国民性ですよねえ。
そしてブログの最大の長所は写真日記が簡単にできること。
通常のアルバム整理だとどうしても保管スペースが必要になり、日本人には苦しい事情が・・・
デジカメとブログによる写真日記でスペースの問題が見事に解決し、さらには気軽に人にも観てもらえるようになりました。
ブログそのものをどこの国のどなたが開発したのかは知りませんが、日本人にこれほど受け入れられるとは想定外だったでしょう。
そしてパソコンやインターネットの普及で、いわゆる活字離れを心配する声も聞かれますが、書く人が多ければ、必然的に読む人口も多いわけで、実はぜんぜん心配要らないのではないかと胸を撫で下ろしたりもします。

  http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0704/06/news057.html#l_ah_blog2.gif
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by honnowa | 2007-04-10 06:37 | 文化と歴史

ミイラの発掘現場

エジプトに行ってきました
    『吉村作治 考古学者のひとりごと』より  

上記はエジプト考古学者吉村先生のブログへのリンクです。
今回、今年の1月に3体のミイラが発見されたのですが、吉村先生は日本に帰国されていて当日立ち会っていなかったそうです。
ああ、考古学者の一番の醍醐味なのに。
でもよく考えてみると、こういう場合の真の第一発見者は現場で作業する人夫さんなんですよね。
エジプトミイラともなれば、人夫といえど専門に作業する人たちで、それなりの知識もあるでしょうから、見つけたものの価値もわかり感激する部分もあるんでしょうけど、例えば道路工事やビル建設現場でなにやら古そうなものが出土した場合はどうなのでしょう。
人骨だったらさすがに慌てふためくでしょうけど、石器や壺の破片が出てきても、なんだこれ?ですよね。

今回の発掘現場の様子が昨夜テレビの『日立 世界ふしぎ発見!』で放送されました。
かなり想像していたのと様子が違ってました。
みなさんはどうでしたか。
ミイラ(の入った木棺)の発掘は、ピラミッドの石室の中、暗闇にサーチライトが眩しく照らす中で行われるものと思っていたので、砂漠の真ん中の野天の下、という状況が意外でした。
布に包んで倉庫までワッセ、ワッセと運んでいくところも、現実ですねえ。
大きいものですからね。
指輪など小さいものを虫眼鏡と刷毛を持って探し当てる映像の方が、図としては考古学の現場らしく映ったかも。

さてわたしの思い出話です。
子供のころ造成されたばかりの団地に住んでまして、砂利の中に黒曜石があちこちに落ちていました。
鋭いのでままごとに打ってつけで、拾っては使ってました。
子供心に黒くて形が変わっていて光沢があって、普通の石ではないとは察していたのですが、たくさん落ちていたので、取っておこうとか、持ち帰ろうという発想が湧かなかったのですね。
二、三年ほどもすると砂利もろとも見当たらなくなり、土だけの敷地になっていき、あの黒い石落ちてないなあと思うこともありましたが、それだけのことでした。
それで中学に上がり、学校で石器の標本の中に黒曜石を見つけ、ようやく黒曜石がなんなのかを知ったわけです。
一つぐらい拾って持っておけばよかった、と臍を噛んだのは言うまでもありません。
たくさん落ちていてそこまでの希少性を感じなかったんですよ。
なくなってしまったのはどうしてなんでしょう。
値打ちをしっている大人が拾い集めたか、でもごろごろしていた砂利も消えたので、清掃でまとめて片付けられたのだと思います。
造成中の現場を見かけるたびに、なんとなく黒曜石を探してしまいます。

わたしが知っていた黒曜石はこんな感じです。
土壌改良材のパーライトの原料なんだそうですよ。
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

アクセサリーにできるようなきれいな色のものもあるのですね。
  黒曜石と天然石アクセサリーの『纏』様の『黒曜石資料館』より
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by honnowa | 2007-03-11 10:34 | 文化と歴史
このブログを読んでくださっている方の中で、世界遺産ファン、エジプト好き、ミイラ好き、考古学マニアの方いらっしゃったら、今晩の『日立 世界ふしぎ発見!』 ぜひ観ましょうね。

先日07/2/21の記事で伝えましたとおり、今晩、ミイラ(の入った木棺)発見の現場が紹介されますよ。
『日立 世界ふしぎ発見!』のホームページでは、ミステリーハンターの浜島直子さんのレポートも紹介されてます。
言葉の出ない驚きだったそうです。
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by honnowa | 2007-03-10 11:39 | 文化と歴史
本年1月に新発見した木棺の記者発表をしました
  『吉村作治 考古学者のひとりごと』より  

考古学者の吉村作治先生が、今年の1月に(ミイラの入った)木棺を発見されましたが、その瞬間が3/11(土)放送の『日立 世界ふしぎ発見!』で放送されるそうです。
たまたま番組の取材チームがロケに来ていたとのこと。
なんという幸運。
また3/11の放送というのは、同番組にとって第1001回目の放送になるようで、なんだかものすごいめぐり合わせという感じ。
『日立 世界ふしぎ発見!』のホームページには、まだこの放送の予告は出ていませんので、上記の吉村先生のブログ『吉村作治 考古学者のひとりごと』をご覧ください。

発見の瞬間ってどんな様子なのでしょうね。
想像するだけでわくわくします。
学術調査の現場なので、きっと地味なんだろうなあ。
でも木棺なのでさすがに、おお、と現場がどよめいたのかしら。
楽しみですねえ。

さて今回、初めて吉村先生のブログをおじゃましました。
吉村先生といえば、最近はサイバー大学のことでも話題です。
わたしはこの大学に関心があったので、ブログで考古学だけでなく大学についても触れておられて、なおさら興味深かったです。
どうしてサイバー大学に関心があるかというと、世界遺産学部があるのですよ。
吉村先生はその大学の学長であり、学部長なのです。
この4月に開校されますが、この日本初の試みがぜひ成功しますように。
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by honnowa | 2007-02-21 09:03 | 文化と歴史