ヨハン・アドルフ・ハッセのこと
2008年 04月 14日
そしてこの人物はバッハ様とも親交のあったことが伝えられています。
では、どういう人だったのかみてゆきましょう。
まずはこちらをご覧下さい。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より 『ヨハン・アドルフ・ハッセ』
オペラ歌手から作曲家に転進したのですね。
彼のオペラはドレスデンでおおいにもてはやされたそうです。
ちょうどそのころ、バッハ様はハッセと親交があったようです。
さて他の2人との絡みをみてゆきましょう。
ヴィヴァルディ晩年のことです。
彼(ヴィヴァルディ=私注)の十八番、数々の手直しを受けてきた最後の『パルケナス』は
プログラムからはずされ、ヨハン・アドルフ・ハッセの『アッターロ』と差し替えられる。ハッセ
はナポリ育ちのザクセン人だが、養子縁組によってヴェネツィアの市民権を取り、オペラの
新しい流れの創始者だった。 (P134)
ヘンデルと直接対決はなかったものの・・・
彼ら(ヘンデルの対抗派閥=私注)は、その当時の最も偉大なオペラ作曲家のひとりで、
イタリアに帰化したドイツの作曲家ヨハン・アドルフ・ハッセを招聘することにした。しかし彼
の返事は、自分はヘンデルが生きている限りロンドンの地を踏むつもりはないというもの
であった。ヘンデルと同じザクセンの地に生まれたハッセは、自分がイギリスを訪れ、この
強力なライヴァルと戦うことによってどんなに素晴らしい結実を手に入れられるかを、しか
しまたそれと同時に、そのことによって自分の名声を決定的に失うかもしれないこともよ
く知っていたのである。 (P176)
ファウスティーナ・ボルドーニ(1700~81)は、ガスパリーニ、ベネデット・マルチェッロ、
ベルナッキらに師事したコントラルト(女性の低い声の歌手)で、ヘンデルによってヘイ
マーケット劇場に招聘されて以来、クッツォーニの最強のライヴァルとして彼女と覇権を競
い合った。彼女は1726年から30年までロンドンで活躍した後、「ザクセンの神」とその才
能を高く評価されていたドイツの作曲家ヨハン・アドルフ・ハッセと結婚、彼のオペラの重要
な専属歌手となった。 (P161)
バッハ様もヴィヴァルディもヘンデルも、それぞれ異なる国で活躍し、成功したジャンルもオペラとは異なるのに、オペラ作曲家が3人と繋がっているなんて面白いですね。
このような交友関係は大勢で仕事をする音楽家ならでは、のものかもしれませんね。