意識と表現
2007年 01月 12日
本当はもっと別のことを書くつもりでいたのですね。
何を書きたかったかというと、突然の厭世観に襲われる一族を許容する氏の人柄というか優しさを著したかったのです。
だから『姨捨』伝説が、厭世される側の人間である氏を、幼いときは悲しみに襲い、長じても書物を手に取らせ、近くを通れば必ずある感慨を催させるのだと書きたかったわけです。
もともと『補陀落渡海記』と対に捉えて読んでいて、『補陀落渡海記』が事実に基づきながらも変更している箇所があり、そこは作品のテーマがずれてしまうからということもできるのだけど、わたしは氏の優しさ、いたわりの気持ちを感じました。 (07/1/8の記事参照)
そして私小説である『姨捨』を読んで、氏の人柄をさらに知った次第です。
こういうことを書きたかったのになぜかどうしても文章が繋がらす、氏の言うところの「一種の厭世観」よりもっと的確な言葉はないか考えるのを糸口に、するするっと記事のような文章ができてしまいました。
微塵の思いつきもなかった内容だったのですが、できてしまえば、まあいいかと。
9日から仕事が始まるし、これはこれでよしとしたわけです。
文章の上達を願う身としては、こんな絵画的な書き方でいいのかしら、と思う。
壁の染みからなんとなく絵筆を走らせているうちに・・・ みたいなのは、果たしてどうかと。
思ったことをそのまま綴ったり、またはきちんと頭で組み立てたことをその通りに綴るとか、そういうことができるようになりたいものです。